父 堀田洋一は、私が生まれた1967年
英語教師を退職し
癌で倒れた祖父の代わりに堀田看板店を継いだ。
手先が器用ではなかった父は
筆で文字を描くという技術を積み重ね
家族を守った。
ペンキの匂いがする家で育った私は
幼少の頃から家業が好きになれなかった。
ある日、堀田看板店は
ある靴屋さんの看板を取り付けた。
その靴屋さんはいつもとは違う輝きを放ち
街までも輝いているように見えた。
こんな短期間でガラりと変えてしまう看板業は
幼い私にとって、まるで
魔法使いのように思えたものだった。
バブル崩壊の1年前 大学4年の時
ある日珍しく親父から声を掛けられた。
「今度コンピューターを導入しようと思うんだが、おまえはどう思う?」
その当時で600万ほどの設備は
「失敗したら一家離散だね」と冗談を言いながらも
何よりもうれしかったのが
親父が相談をしてくれた事だった。
「もし買ったら俺が覚えて使っていくよ」
この言葉は精一杯の喜びの表現だった。
「じゃ買うか」
その一言で
私はこの家業を継ぐことを決めた。
母を加えた3人で、その時代に合わせながら
有限会社、そして株式会社看板市場へ
おまえはどう思う?という親父の一言から
自分の人生をこの仕事に捧げることになったが
看板の力で新しい縁が結ばれ
人が、店が、街が輝く
「良縁広げ 人 街輝く モノ創り」という理念は
幼い時に見た「看板屋の魔法」から生まれたのかもしれない。